Tanuki Neiri

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  • 2014.04.16 Wednesday
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ベレス

半村良「魔境殺神事件」
島田荘司「消える上海レディ」
色川武大「私の旧約聖書」
小川洋子「刺繍する少女」
伊坂幸太郎「重力ピエロ」
嵐山光三郎「頬っぺた落とし う、うまい!」
栗本薫「陽気な幽霊 伊集院大介の観光案内」
ジョン・ディクスン・カー「火刑法廷」

「きみらが言ってる、『熱い』だとか『クール』なんてのはぬるい湯だし、きみらが装いたがってる『ぬるい湯』ってのは、みんなで仲良くすし詰めで入るのがマナーなのかな?」

前回書いたの2月だって。
4ヶ月も開けばふつうはもう見ないよ。あんたも好きだねぇ。

その間の出来事。時系列が思い出せない。土地はスケジュール帳を見て書いた。感想は書かない。これは日記。メモ。いくつか抜けているかもしれない。

▼ウリチパン郡と七尾旅人のライブを観る(梅田)
▼とうめいロボのライブを観る(天神町/秋葉原/西荻窪)
▼ソロライブ(渋谷/新高円寺/高円寺/壬生)
▼絵の展示(壬生)
▼ドラムでライブ(新高円寺)
▼Rライブ(新大久保/渋谷/東高円寺/丸太町/深江浜/河原町)
▼Mライブ(吉祥寺/渋谷/上野)
▼Cライブ(東高円寺/阿佐ヶ谷)
▼R CD発売
▼すてきな食事(西荻窪/西院/新京極)
▼ホテル(深草/西院/下京区)


頭の良い人、クールな切れ味の人。一面でものを判断しない思慮深い人、想像力のある優しい人etc…。
言えばきりがないが、ようするに言葉通りの意味でのそういった良心的な人たちが、近年急激にはびこっている「最もバカな層」に、仕方なく合わせてあげている、というのが、ここ1、2年の状況に見える。ここまでレベルを落とさなきゃなんねえのか、という心の悲鳴が俺には聞こえるようだ…。空耳?空耳だったら本当にいいと俺も思う。
日本における「良心的な存在」と「最もバカな層」の差は、いまやかつてないほど開いている。中間もすべて離れ小島化した。もはや日本人は日本人を特徴づけるある単一の何かを有する民族ではない。共同体は完全に崩壊した。
誤解を招きそうなので断っておくが、だからといって俺は「昔の日本人の美徳が失われてしまった…」だとか言って憂えているわけではない。むしろ完全に崩壊していただいたほうがいい。今よりも、もっと完全にだ。俺が嫌なのは、ほとんど崩壊しているのにそれに気づかないで、ある日本人的な「枠」をあいかわらず設定しつづけるようなバカがいまだにごろごろ残っているこの状況だ。
「完全に崩壊している」ことが大前提の社会になってほしい。崩壊を再統制する欲望が生むナショナリズムも、「崩壊してるけどやっぱ日本人はコレだよね」的な、OK探りの態度もNOだ。「あなたとわたしは違う人である」という「常識」が行きわたってほしい。共通言語なんてもはや何もないのだ。
共通言語が何もないところから俺は話を始めたい。共通言語のないところから俺はコミュニケーションをとりたい。共通言語のないところから手探りでコミュニケーションを始め、相手のバックグラウンドに思いをはせ、そして深く理解したい。
共通言語はない。
みんなが夢中になったテレビドラマ。日本中が感動したあの名曲。愛されワンピ。一度は味わう学生時代の甘酸っぱい思い出。酒をくみかわしてハメをはずした若い日々。いろんなことがあったけどみんなが帰る心のふるさと。
そんなものはない。
アニメしか映さないテレビ。無名のバンドの煌く歌。切った手首を隠せないワンピ。部屋から出られない学生生活。上司に強要された一気飲みで親友を亡くしたサラリーマン。ダムと道路で切り刻まれて破産した故郷。
想像しろ。
あなたとわたしは違う人である。


栗本薫「顔」
我孫子武丸「殺戮にいたる病」
有栖川有栖「マレー鉄道の謎」
アガサ・クリスティー「カーテン」
丸山健二「生きるなんて」

ヘレオラ 改

Mの演奏旅行に行ってきたので、人間が変わった気がしている。

こんな泡沫バンドのツアーひとつで人間が変わった気がする自分なんておめでたいものだ。
しかし泡沫バンドというのは謙遜ではない。言うならばロックバンドなんて全部泡沫だ。殉職するようなものでもないし聖なるものでもない。しかし正確に言うなら、ロックバンドにかぎらずこの世に殉職に値するようなものや聖なるものなど何もない。ロックバンドは、それにくらべたらちょっとはましなものかもしれない。しかしくらべなければわからないという時点でたいしたことはない。俺という観測者の目がくもっているという事実をさっぴいても、たいしたことはない。
誤解のないように言い訳すると、非常に充実した旅だったので、その反動で空虚なことを考えずにはいられない。音楽とは、そして人生とは何ですか。俺は笑ってかわしたい、そんな問いは。はあ?とか言いたい。ただ場所が変わっただけとかしっかり言いたい。しかし今回の旅は、その問いから逃げられなかった。恥ずかしながら、まったく逃げられなかった。今も逃げれていない。真正面からその言葉通りの重みのままそうつきつけられた。試されているような気がずっとしていた。全然逃げられない。精神的なところから発生した物理的な力が強すぎる。たとえば俺は今自分の家にいるという実感が全然ない。仕事先に行っても帰ってきても全部「外」に思える。「家に帰る」という意味がよくわからないでいる。この家も「旅先」なんじゃないのか?
ついにプリミティブな力ってやつに飲み込まれたのか?旅人の神経が完成してしまったのか?

人生を、物理的・空間的に相対化する手段を「旅」と呼ぶのなら、今回の演奏旅行はまさしく「旅」だった。「ツアー」でも「旅行」でもない、「旅」。「旅」なら、なるほど泡沫のバンドの構成員にしても、その泡沫の人生に見合った最大の「相対的」ではなく「絶対的」な衝撃が走るだろう。それは他人のそれとくらべる必要がないだろう。規模の大小ではないという話になるだろう。だからそれは、おそらく他人と共有することはほとんどできないだろう。

良し悪しはわからない。ただとても、孤独な感じがしている。身近な人間関係が全部使いものにならなくなった気がしている。今までも時々はそう思ったことはあるが(誰でもあることだろう)、今回は、それがはっきり示されてしまったような気がしている。物理的に、もう違う、と示されたような気がしている。たとえば、今でもあなたはジャングルジムで遊ぶだろうか?

泡沫の世界の泡沫の出来事、それが今俺がやっていることのすべてだが、言い過ぎじゃないのか。お前の皮肉はまだ通用するのか?皮肉がかえって強がりにみえるという意味不明の逆転現象を起こしてるんじゃないのか。非現実じみた現実に戸惑っているだけ。現実にあったとは思えないほど美しい出来事は悲観的・理性的で冷静であったはずの想像を越えていて、どういう態度でもう一度現実を暮らせばいいのかわけわかんなくなっているだけ。何もかもが殉職するに値し、何もかもが聖なることに思えてくるのだから、同時に、何もかもが殉職するに値しないし、聖なることなど何もない、などと強がりを吐いているのではないか。しかしそれを認めてしまったら、どう生きる?それはほとんど出家だ。聖人の人生だ。聖人の人生はやばいんじゃないか。聖人の人生に釣り合う魂の持ち主を、実際に会ったことがある人でいえば俺は3人知っている。それはやばいんじゃないか。責任とれるのか。1と0.9の間はでかいはずだ。死にたいのか?しかしこれは俺が招いたことではないのか。俺が振ったふりこがそう動いているのではないか。ふりこを振ったんだからその慣性をまっとうしなくてはならないのではないか。ていうか招いたし確かに振った。それは事実。当たり前だが他人の出来事の話じゃない。巻き込まれたふりをしてこんなふうに書いているが、とぼけている場合じゃない。これがお前の望みだ。お前はもう知っている。お前はもう夢をかなえながら生きている。お前の皮肉はもう使い切られた。お前はもう逃げられない…。
まあしかし、聖人、とか書くと、ちょっと落ち着けよという気分には、なる。旅から日にちも少しはたった。空虚を注入してバランスをとっているのか。こざかしいはかり自体を捨てた立場に立たされたというのか。最高の出来事も最悪の出来事も自分の人生に起きることはすべてフラットである、何も意味などない、という理想の姿を、本当にしっかり考えていたか?もっと強い光、もっと深い闇があることを忘れてはいなかったか?そりゃ忘れてはいなかったろう、あくまで考えの上、では。しかし初めて住んでいた洞窟から出た程度でビビっているように俺には見える、俺のことが…。朝と夜、でもまだ甘い。もっと想像もつかない光と闇…時間軸と空間軸にもっと想像を絶するとほうもなさをみせる光と闇…。気をつけないと現実はすぐに俺を物理的に軽々と越える…。星の距離をメートルで測るような愚かさを俺はいつも思い知らされ、それどころか観測先の星がいつまでも変わらず存在し続けていると思っているような甘えが、つぶしてもつぶしても残っているような…。

云々。それが2月あたまぐらいの話。ここに書きこんだ最後の日付けは去年の12月。いい加減に最近のことやその前のことを混ぜて書きたかったが長くなりすぎるので今日はこれまで。


阿佐田哲也「無芸 大食 大睡眠」
阿佐田哲也「ドサ健ばくち地獄」
阿佐田哲也「ギャンブル人生論」
安倍公房「砂漠の思想」
桑田佳祐「ケースケランド」

ブロウ・バイ・ブロウ・バイ・ブロウ・バイ・ブロウ・バイ・ブロウ

11月が終わって12月になった。
過去をふりかえる。

●MYSPACEめぐりとウィキペディア漁り
なぜ今ごろ?それは最近、どちらのサイトも何だか軽くなった気がしたからだ。システム改善の努力が窺える。これなら俺のオーパーツ・パソコンでも安心して見れる。

MYSPACEでものすごいアーティストを発見した。
Blue Sky Sea
http://www.myspace.com/1000812280

戦慄が走るとはこのことだ!
ライブが観たくてたまらない!

ウィキペディアはトリビアルな知識がたまらなく面白い。
執筆者の熱い思いが、簡素で感情を排した文章からでもガンガンにじみ出てくる。たくさんそういう熱い記事があったが、今パッと覚えてる中ではつボイノリオの記事とゲーメストというゲーム雑誌についての記事が面白かった。


●U.F.O. CLUBでライブ
MUDDY WORLD。
ひさしぶりのU.F.O. CLUB。ここにはかなり長くお世話になっているのだが、やはり、このライブハウスは「音がヘン」だと今さらながら改めて気づいた。いや待った、ヘンじゃない。「目的はただひとつ」のライブハウスなんだ、と、改めて気づいた。その目的とは言うまでもない、「超かっこいいロックをギャンギャンに鳴らすため」で、つまりようするに「ロックバンドみたいなライブハウス」なのだった。他の目的は一切、なし。こじんまりをバッサリ拒否する三次元の姿のロック。建造物としてのロック。だから、U.F.O. CLUBの最大の共演者は対バンでもお客さんでもない、「ライブハウスそのもの」なのだった。
並のバンド、はもちろん、「ロックじゃないけどグッド・ミュージックなバンド」じゃあ、ホテルの窓から投げ飛ばされるテレビみたいなはめになるぜ!あいつに常識は通用しない!


●GRAVURE関係
サイトを特設してフライヤーをつくる。
サイトを特設したのはいいが、隔年イベントなので今回はまだ3回目(第1回目は2003年)、つまり、サイトを埋める内容があんまりないのでちょっと困った。


●携帯小説
携帯小説ってのが十代の人たちを中心に流行ってるようですよ、ていうドキュメンタリーをNHKで見た。
携帯小説?Yoshiとかいう奴のDeepなんたらとか?って程度の俺の情報はちょっと古いようで、番組では、その後携帯小説が広まりさまざまな「作家」がいる現在の状況を伝えようとしているようだった。と思う。だから「いま、携帯小説は」といった感じだろうか。
携帯小説を愛読しているという、番組に登場した十代女性がこんなふうに語った。
「大人の本は、よくわからないんです。考えとか、言葉とか、わたしたちには難しくって」
汚い大人の書いたものなんか読めるかよ、とか、わたしたちの気持ちはどうせわからない、とか言うのかと思いきや、この奇妙なへりくだりの感覚。如才ない対応。これは俺をして相当不気味な気分を味あわせた。
反抗でも、聡さでも、背伸びでも、勘違いでもない。彼らは、ジャストに携帯小説を愛読していて、そこに彼らとは話が通じないであろう恐ろしさを感じた。
彼らはジャストに愛読している。繰り返すが、反抗でも、聡さでも、背伸びでも、勘違いでもなく、ジャストに読んでいる。
十代のもつ過剰な属性を抜きにして、イチ常識人として、愛読している。
だから当然「誠実」なわけで、どんなことを言ってもおそらく「そうですか、わたしは感動しました(あなたはしないんですね、そういう方ももちろんいると思います)」という結論にしかならないはずで、それでいて彼らは決して「大人」ではなくて「若者」なんであり(なので相田みつをが好きなおっさんやおばさんと生温かく接するのとは訳が違うのだ)、そして若い彼らにとってはその読書体験が血肉・ベースとなっているわけで(「わたしには、大事なものを気づかせてくれた作品なんです」)、俺は携帯小説の血肉を持った若者なんかと関わり合いにはまったくなりたくなくて、一刻も早く彼らが、成長過程やこれから出会う表現がもたらす相対化の波に呑まれてくれなくてはマジ勘弁、という暗い気持ちになったが、とっくにわかってるさバカは相手にするなってね、と胸に秘め今もどこかでひとりすっくと立っている賢い女の子や男の子がたくさんいるに決まってるから安心して、そののちすぐに、適当なドキュメンタリー一本見て十代の危険な一般化をちょっとでも図ってしまった自分に年齢を感じた。

で、ある雑誌で、中学生か高校生の画家が若きホープとして紹介されていて、その絵は、ちょっといいと思った。でも、商業的な意味ではなくて、絵そのものについてのコメントで「大人の方が考えている難しいことはよくわからないんですけど」とか発言してて、ちょっとイラッとした。なんか流行ってんの?アイデンティティとして無知のスタンスを「選びとってみせる」のが?自分は大人である、って自分でわかってるくせに子供のフリすんな!せっかく椎名林檎みたいに「若い自分の『大人の』クレバーさ」を引き受けるアーティストが出てきた後の世の中だってのに、いらん揺り返しだわ。本物のガキの白痴なんて、19みたいなやつにまかせとけばいいし、そしてそんな時代は終わっただろ。いまだにその度合いを深めてる感のある白痴系・自己陶酔ギターロックバンドもそのうちみんないなくなるよ。安心しろよ、お前が切れ者だってことはみんな見ればわかるんだぜ。


半村良「ガイア伝説」
有栖川有栖「山伏地蔵坊の放浪」
宮部みゆき「誰か」
金井美恵子「文章教室」
吉行淳之介「暗室」
栗本薫「グイン・サーガ外伝8 星の船、風の翼」
アイザック・アシモフ「ユニオン・クラブ綺談」

血に飢えて…

このブログの過去の日記を読んでみたら、短くて面白かった。
こんな感じでいきたいわ。

日記を続けるコツは、その日の出来事だけを、事実のみを淡々と書く、ことらしい。
それはそうだろう。
この前書いたのが8/27で、今日は10/19。8/27の前は8/16、その前は7/14。
この間、感じたことや考えたことを長々と書いたがアップはしなかった日記、ようするにボツ日記が、7個ほどある。
筒井康隆の「腹立半分日記」というのを最近読んだ。それは大体事実8、感情2といった感じでバランスがよかった。単なる出来事だけでもないし、長い独白でもない。こんなのいいやね。
たまに長いのや、ものすごいそっけないのが混じっている。でもトータルだとそれはアクセントにもなっている。日記とは不思議な表現だ。更新と蓄積が同時に表現されていく。というより、日記は元来、他人には見せないものなのよな。

筒井康隆といえば、先日のライブではつまらないMCをしてしまった。MCというものの不可思議さは謎だ。言ったそばから消えていくくせに妙にライブを(バンドを?)左右しもする。
これを機会に訂正する。観ていなかったひとには何のことやらだろうが…。
おれは筒井康隆にもビートたけしにも与しない。何であんな派閥争いみたいなこと(と受け取られてしまいそうなこと)を言ったのか?アホか。どちらも大好きな人であるのは本当だが、それ以上でも以下でもない。それだけのことだ。
…言ったそばから消えていくことに言い訳してどうする?ああー…俺には一生、MCというものは謎に包まれているにちがいない。


牧野修「屍の王」
鮎川哲也「憎悪の化石」
機本伸司「神様のパズル」
山口雅也「マニアックス」
歌野晶午「世界の終わり、あるいは始まり」
法月綸太郎「頼子のために」
筒井康隆「腹立半分日記」
深沢七郎「言わなければよかったのに日記」
さくらももこ「おんぶにだっこ」
有栖川有栖「スイス時計の謎」
有栖川有栖「ブラジル蝶の謎」
有栖川有栖「マジックミラー」
有栖川有栖「ダリの繭」
有栖川有栖「双頭の悪魔」
栗本薫「グイン・サーガ外伝2 イリスの石」
栗本薫「グイン・サーガ外伝3 幽霊船」
栗本薫「グイン・サーガ外伝4 氷雪の女王」
栗本薫「グイン・サーガ外伝5 時の封土」
栗本薫「グイン・サーガ外伝6 ヴァラキアの少年」
栗本薫「グイン・サーガ外伝7 十六歳の肖像」
栗本薫「早春の少年 伊集院大介の誕生」
エラリー・クイーン「エジプト十字架の謎」
アガサ・クリスティー「三幕の悲劇」
有栖川有栖/太田忠司/麻耶雄嵩/若竹七海
「ミステリ・アンソロジー5 血文字パズル」
北大路魯山人 平野雅章編「魯山人味道」

NEW FOREVER

柳川鍋を作る。
ドジョウは近所の魚屋で売っていた。とても小さい。
6匹買ったが、ドジョウってこんなにイキがいいものだとは。小さいので捕まえられず、3匹逃げられ、排水口に消えていった。

だから、正確にはゴボウ鍋と言ったほうがいいようなものができた。
ドジョウを頭から食うと何か悪いことをしている気分になる。ぽりぽりとドジョウの頭をかじると切ないとか云う、誰かのそんな詩があった気がする。


宇神幸男「ニーベルンクの城」
有栖川有栖「ロシア紅茶の謎」
有栖川有栖「スウェーデン館の謎」
伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」
阿部和重「アメリカの夜」
レーモン・クノー「地下鉄のザジ」
ジョン・ディクスン・カー「夜歩く」
栗本薫「グイン・サーガ 16 パロへの帰還」
栗本薫「グイン・サーガ 17 三人の放浪者」
栗本薫「グイン・サーガ 18 サイロンの悪霊」
栗本薫「グイン・サーガ 19 ノスフェラスの嵐」
一條和樹「出張ホスト 僕は一晩45000円で女性に抱かれる」
松村雄策+渋谷陽一「40過ぎてからのロック」

サマーボーイ

ああ、なにか怖い話はないか。

最近ほとんどの時間を怪談につぎこんでいる。
怖い話が大好き!大大大好き!
特に今はインターネットのおかげで、幅広くさまざまな怖い話がいくらでも読める。実録もの、都市伝説、フォークロア、ほの暗い伝承譚、妖怪の話、サイコのエピソードの類から、超常現象、オーパーツ、不可思議体験、地球外生命体もの、陰謀説、何でもござれだ。
最近では会う人にまで「何か怖い話とか、不思議な体験ない?」と聞く始末。
みんなはじめは「え〜怖い話?なんかあったかなあ…」と言うのだが、聞いていくと「そういえばあれは不思議だったな…」とか「友達のことなんだけど…」と言って語り出す。またそれがとても面白いんだ。そんなとき俺の眼は輝いていると思う。
あなたにもひとつやふたつ絶対あるはずだ。
あなたの不思議な話、聞かせてください。

ところで、「怖い話が好きだ」と言うと、「霊感があるの?」とか「そういうの信じてる人?」とか聞いてこられる方がいるのだが、べつに信じてない。霊感もない。そして俺自身そういういわゆる霊体験はしたことがない(UFOを見たことなら2度あるがそれも何かの見間違いだと思っている)。
だが怖いものは怖い。そして面白い。
面白い、といってももちろん「ウソくせー」とか思って馬鹿にして面白がってるのでも、全然ない。
信じてるとか信じてないとかじゃないんだ。そういうんじゃないんだ。
真偽なんてどうでもいいのだ。
たとえば。
友達同士で怖い話をしていたとする。
「絶対ウソだよー」とか「ホントだって!」とか「うわ、怖っ!」とか、ワイワイ言いながら誰かの家で缶ビールでも飲みながら談笑していたとする。
そこに着信音が絶妙なタイミングでいきなり鳴ったとする。
そしたらゾクッとするでしょう。ハッとして顔を見合わせたりするでしょう。
その物理的な怖さ。説明以前の恐怖。
説明できる/できない以前に、まず真っ先にやってきて心をとらえる、恐怖という感情。
解釈を求めようとする理性がやってくるのは、いつでもその後だ。「いやービックリしたわ誰の電話よ。偶然だよな」と。でも恐怖のほうが一歩速く、先に精神に到着している。
怖い話というのはそこにロマンがあるのであって、それはやっぱり霊のしわざだ、とか、いや単なる錯覚に決まってる、とか、そういう議論は、はっきりいって問題外。
いや、ときにはそういう話も俺は面白くて好きだ。ただ、それはもうほとんど理系の興味というか(宇宙の果てはどうなってると思う?みたいな)、今ここで言ってる怖い話の面白さとは微妙に違いまさね。検証・分析の楽しみ、というやつだ。ネス湖のネッシーの話が不思議で面白いんであって、ネッシーが捏造だったというのはまた別の話で、それもまた面白い、という。
怖い話は、話を読み聞きして「おお、怖い…」と感じたらそれでいいのだ。そこで完結なのだ。
その後にいろいろ、理性が後処理する。そしてそれはまた別の話だ。
あとは、その恐怖を呼び起こす流儀が問題なんであって、いま着信音の例えを出したが、これはちょっと無粋なほうだ。直接的すぎる。何だか、普通に聞いてたり読んでたりするうちに、気づいたら実はもう怖くて後ろをふりむけない…とか、そういうのが洗練されてていい。

というわけでみなさん、怖い話を聞かせてね。
本からひっぱってきてもウソっぱちでもなんでもいい。
「信じられないだろうけど…」でも「あまり怖くないかもしれないけど…」でも「オチとかないけど…」でもなんでもいい。
つまりきっと俺は、物語が聞きたいんだな。

町の朝

MUDDY WORLDスタジオライブをやる。
お客さんもそこそこ入り面白かった。
せっかく昼間に始まり夕方に終わったので打ち上げに参加したが、もう酒はほとんど飲めないことに気づいた。最初の一杯しかいらない。それ以降は身体が睡眠を要求する。
じゃなければ、うまい酒しか飲みたくない。複合的なしかしあるはっきりした理由により俺はかなりいらついていたのだが、いらつきながら飲む酒はまずい。そして、たとえ表には出ていなかったとしても、いらつきながら飲む人がいては場に非常に申し訳ないので、帰って寝た。

ライブが終わっても、その日一日、ギター・マシーンに徹していないとこういうことが起きる。今までにもあった。うまくいったこともあった。ビールのためにライブをやる方々、観てくださる方々、を責めるものではないが、俺には到底無理だ。皆さんとてもご立派だ。
ライブを胸にそのまま帰途に着いたお客さんに届いているならば、それは本当に幸せで、ありがたいことだ。

アナーキーな態度でいればいるほど首をしめる気がしているが、アナーキーな態度なしには何も面白くない。
といってアナーキーに底まで浸かるほど根性が座っているのでもなさそうだ。
バランスは確かに大事だが、本当にバランスのとれている人は、ときにはバランスを崩すということがとても大事なのだ、ということを知っている。バランスを犠牲にしてでもやることがあると判断した場合、本物のバランスの持ち主は迷いなくそちらを優先する。
天秤がでかいのだ。大局的ということであり、だから小賢しくもならない。
アナーキーな人たちが信じているものとは何だ?すくなくとも現世のものではないようだ。来世か?そんな天秤の巨大なアナーキーな人たちを見ているとグワッと尊敬の念がわいてくる。彼らは現世との軋轢そのものがガソリンになっているようだ。つまり生きているかぎり、ガソリンは燃えつづけるだろう。しかも、燃やすことによって軋轢の元凶である現世をすら祝福するという離れ業をやってのける。彼らの戦いのわだちは、人間に勇気を与える。今まで道のなかった荒野にはじめの一歩を踏み出し、道をつくるということなのだから。
もっとも、燃費が悪いアナーキーは観るに耐えないが、もちろんここで言ってるのはそういう二流アナーキーのことではない。二流アナーキーの自分に見切りをつけるべく、俺はあるひとつの決心をした。寝ながらふと思ったことだったのだが、今も全然頭を去らないので、これは決心なのだと思う。

それとは別にどうでもいいが、ライブの前には近くのコンビニで週間文春を読むことに気づいた。どうやら最近のライブでは必ずやっていたようだ。一種の儀式になっている。


鮎川哲也「モーツァルトの子守歌」
牧野修「呪禁捜査官 訓練生ギア」
阿佐田哲也「雀鬼五十番勝負」
倉阪鬼一郎「文字禍の館」
綾辻行人 編「贈る物語 Mystery 九つの謎宮」
ジョン・ダニング「幻の特装本」

ブラックアンドブルー 改

時系列はバラバラです。
更新していないともういつのことだかなんだかわからない。

▲レシポンは合宿に行きました
合宿先はなかなか愉快な場所だった。
メンバー一同、着くなりなんとなく苦笑する。
まあでもあれですよ、バンドの合宿とかにはいいところですよ、きっと。ちゃんと練習や作曲もはかどったし。
新メンバー、べーシスト陳蓮慈のつくった朝飯に舌鼓を打ちつつ、健康的な合宿だった。


▲ドラムを叩く
古宮夏希バンドというバンドでライブに出る。俺はドラム。
おそろしいほど客がいず、かつ主催・古宮氏の意向によりU.F.O. CLUBの照明はつけっぱなしだったため、ガラガラが丸見えのものすごい状況と相成った。いっそすがすがしい、とかも越えて、なんというかもう、ものすごいとしか言いようがない。ライブ自体はおもしろかった。
基本的にひとりで(背景ゼロで)他の土地からやって来て(ツアーとかではなく居をかまえて)音楽をやるということは、どういうことなのか?それは、多くの場合、音楽よりも人生のサイズのほうがまさるということであり、音楽のほうが人生のサイズを越えることはまれで、またたとえ音楽が人生のサイズを越えたとしても、それはそのまま人生に嘘偽りなく還元されてゆくということであり、そういう人たちのそういう状況を間近でみるとどう思うかというと、端的に言えば、非常に怖い。
それは、彼らの人生のサイズがちっぽけであるからみじめにみえちゃって怖い、という意味ではない(そういう気の毒な「都会に押しつぶされそうな」人たちは東京ではときどき見受けられるが)。
人生と音楽のサイズとは?
この日出演した彼らの場合、良くも悪くも彼らの人生のサイズは彼らの音楽に比するとあきらかに巨大なため、ポピュラー音楽なんてものはたまたま彼らの人生にちょっとうっかり現れた「余剰(余暇)」にすぎない、という現場をみたような気が俺はしていて、つまり「NO MUSIC, NO LIFE!」的な甘いメンタリティをあっさり消し飛ばす力があったと思った。それはたとえば、CDが聴けないなら自分で歌えばいいじゃないか、とか、農業に従事している人間が最後には食糧に困らない、とか、パソコンなくても別に暮らしていけますが何か?とか、ガスがなくても火は起こせるよ、とか、何でここにはこんなにビルが建っているの?とか、そういう人間の原初の素朴なパワーに触れる思いがしたということで、それは、結局は東京の「もしかしたら人類には必要のないようなもの」に囲まれて育った俺には非常に脅威で、何も言い返せないし、圧倒させられる他はなかったのだった。
出演した古宮夏希、古宮大志(しかも彼らは夫婦だ)、彼らは自分の歌を「(彼らが生まれ育った北海道への)ホームシックの歌だよ」などとうそぶいていたが、俺にはとてもそうは思えなかった。住宅地育ちの俺がいくら語ったところでせいぜい「今のリアルな感じ」程度のやせた物語にしかならない、それではもう「物理的に」とてもかなうべくもない、彼らの、北の土地での暮らしと思いを背景にした、ポストモダンを鼻で笑う圧倒的な物語感。それは、「んで、音楽自体は結局のところどうなの?」という問いを、何となくしかし確実に受けつけない力をもっていた。何度も言うが、それがいいことなのか悪いことなのかはもはや、全然わからないが。
彼らには何も関係ない。彼らは物語だから時も場所も何も関係ない。ポピュラー音楽はたまたま出力装置としてそこにあったので使っているだけ。小説でも映画でも絵画でも演劇でも何でも、彼らのような表現は出力装置を問わないだろう。しつこいが、音楽としてそれは…ってのはもう入る隙がない。そして、時も場所も問わないということは、その場にたまたま受け手がいなくても関係ないことすらをも意味する。彼らの人生には、東京でイベントをやって客が全然こなかった、なんて出来事など、ちょっと愉快なエピソード、といった程度のアクセントしかつけないだろう。
いいか悪いかはもうほんととにかく置いといて、(ポピュラー)音楽より人生のサイズのほうが大きい、ということが正しくそのまま発揮されると、そういうことになる。音楽のサイズのほうが大きいとき、それがうまく自分の才能で御せていればいいが、そうでないと何浪しても受からない浪人生みたいな感じになる。ふたつが小さいながらも釣り合っていると、受かりそうなので応援したくなるし本人も頑張っている浪人生、あるいは就職を見据えた大学4年生、みたいな感じになるか、あるいは中間ということそれは結局安定しているため、指向性なんか別にないしそんなことはどうでもいい、というような感じになるか。ポピュラー音楽をやっている若者はだいたいそんな感じに分けられると思う。


▲POP GROUP
サツバツとした気分の夜中とかに最近よく聴く(アルバム「Y」)。このブログ内で何度も繰り返しているが、ロックをやる才能というのはほんとうに限られた人のごくごく限られた期間にしか宿らない。
俺は、いわゆる『いい音楽』という、あいまいだがしかしそれゆえ幅広く音楽全般について言えるこの広い言葉と、『ロック』という言葉とは、ちょっと別に考えている。どういうことかというと、ここで言っているこの二重カッコの『ロック』とは、必ず『いい音楽』の中に入り、『いい音楽』の中に『ロック』は必ず含まれる。が、「『ロック』抜きの『いい音楽』」というのも当然あり、それはしかし、単に「ロック以外のジャンル」のことを指し示しはしない。
ロックバンドとは、解散しない限り必ず「『ロック』抜きの『いい音楽』」に向かうものだと俺は考えており(それは、たとえ出してる音が音楽の一形態として「ロック」としか言いようのないものでも)、そしてそれはべつに悪いことではなく、丸くなっちゃって、とかいうのでもなく、『ロック』というものが持つエントロピーの法則みたいなのがもたらす不可避の事態だと思っている。あるべき流れであり、「『ロック』ぬきの『いい音楽』も俺は大好きだ。『いい音楽』であるならば。多くのロックバンドは「『ロック』抜きの『いい音楽』」をやって人生をすごしているのであり、たまに『ロック』をやったりする瞬間や期間(多くの場合、それはバンドの初期)もある。
この二重カッコの『ロック』とはつまり、音楽のジャンルでも、スタイルでも、才能でも、思想でも、姿勢ですらもない。それらは全部関係ない。強いて言うなら「瞬間の状態」とでもいうもので、『ロック』という言葉は、「『ロック』の状態にある」、という意味でしか使えない。
POP GROUPというバンドは、「『ロック』の状態にある」ことを音源に封じ込めている。というか、なんとか封じ込めようとする意図それ自体を伝えようとしている。聴いていてそう思う。しかしそういったものは絶対いつかは失われる。現にPOP GROUPはこの世からなくなった。POP GROUPにはバンドを維持する才能がないとか言ってるのでは全くない。そんなことはどうでもいい。「『ロック』の状態にいる」ロックを聴けることは、俺にとってははっきりいってものすごい珍しい貴重な体験で――ロックは巷にあふれているように見えるけれどそんなわけないと俺は思っている。何度も言うがあんなに危ういところで成り立っている藝術がそんなにたくさんあるわけはない――、ライブを観たらさぞひっくりかえるだろうと思う。ライブとは、たとえばその1時間なら1時間だけでも「『ロック』の状態にいる」ことが可能になる「かもしれない」時空間だからだ。いわんやPOP GROUPである。観れないが。
『ロック』の状態でいるうちは夢中になって必死で『ロック』の上澄みをかすめとりもするが、そうでなくなった時にまごついてぶつぶつ言うロックリスナーはだから基本的には信用できない。音楽とではなく、好きなバンドと結婚したような気でいる、というのはよくわからない。何度も言うが『ロック』とは失われるものだ。しかしその後『いい音楽』という広大な世界へ足を踏み出すのだ。そこはもしかしたら『ロック』をすら内包するかもしれない。そうでないかもしれないけど。はじめっから「『ロック』じゃなくなっちゃったらいらないからそん時はいつでも他のやつ探す」、みたいな顔してりゃいいのに、そういう方々は、好きだったバンドに裏切られた、とかなんとかぶつくさ言ったりする。せっかく『ロック』を聴いているのに!なぜだ?何を信じているのか?自分の信じるものまで他人にゆだねて楽しいのか?それは教祖を推し抱いて思考停止するのとどう違うのか?カルトにはまるようなマヌケな精神とどう違うのか?好きなロックバンドは三食昼寝つきを保障してくれるとでも?『ロック』をそうやってカルト化させるロックリスナーは屑だ。そして「信者」というものののつねとして、彼らには悪気がない。それがいっそういらだたしい。
『ロック』とは、むしろそういうカルトとは逆に、いつでも、疑いを持つという知恵と、魂の自由を謳ってきたのではなかったか?『ロック』自体をすら疑う自由を与えるという信じられないほどにクレバーな態度を『ロック』はずっと示してきてくれたのではなかったか?バカを盲信のぬるま湯に漬けるためになんかロックバンドは存在していない。『ロック』はお前の親でも恋人でも神様でもない。夜中に電話で駆けつけて来てくれる友達なんかじゃない。なぜならただの音楽だからだ。お前がひとりで生きて考えてゆくことができるように、厳しくつきはなしながらもそこからヒントをくみとれるようにつくられた人間の藝術だからだ。少なくとも俺はそういうことをロックから教わった。ひとりじゃないんだ、なんて、その場限りの安心のためになんか『ロック』は存在していない。
「どこまでもひとりぼっちだ、さあどうする?」と挑発するのが『ロック』であり、当然、そんなことを言うには相当の破壊力と愛がなくてはならなくて、そしてそんな力は人間には長くにわたって維持などできない。しかし、人間にはできなくても、『ロック』それ自体は表現だから維持することが可能であり、瞬間を封じこめること、ようするに永遠、を投げかけることはできる。それを聴いた人間の中で育つことができ、考えさせることができ、たとえバンドがなくなってもメンバーが死んでも聴いていたCDなりレコードなりmp3データなりがなくなってもそれはずっと続く。
『ロック』と呼べるのはそれだけ。
そしてそれはもちろん、それ以外の『いい音楽』と干渉するものでは決してない。
そういうのではなくて、俺に言わせれば「表現以前の」音楽、具体的に頼れる人間としての音楽、がほしいのなら、カリスマの魅力をもつ社長のいる企業にでも就職するがいい。新興宗教にでも入ればいい。じゅうぶん、きみの思っている「ロック」とやらの代わりになるはずだから。


半村良「雨やどり」
辻真先「犯人」
辻真先「仮題・中学殺人事件」
愛川晶「巫女の館の密室 美少女代理探偵の事件簿」
牧野修「病の世紀」
牧野修「黒娘 アウトサイダー・フィメール」
栗本薫「グイン・サーガ 4 ラゴンの虜囚」
栗本薫「グイン・サーガ 5 辺境の王子」
栗本薫「グイン・サーガ 6 アルゴスの黒太子」
栗本薫「グイン・サーガ 7 望郷の聖双生児」
栗本薫「グイン・サーガ 8 クリスタルの陰謀」
栗本薫「グイン・サーガ 9 紅蓮の島」
栗本薫「グイン・サーガ 10 死の婚礼」
栗本薫「グイン・サーガ 11 草原の風雲児」
栗本薫「グイン・サーガ 12 紅の密使」
栗本薫「グイン・サーガ 13 クリスタルの反乱」
栗本薫「グイン・サーガ 14 復讐の女神」
栗本薫「グイン・サーガ 15 トーラスの戦い」
栗本薫「グイン・サーガ外伝1 7人の魔道師」

ヴードゥー

いそがしい日が続いている。
家に帰れなかったりする。
でも夏は好きな季節。
今年はなるべく野宿したい。

レシーバーズポンポンヘッドの新曲たちに、ギターがなかなか合わせられない。
もうけっこう長いことやってるのに、打ちこみにギターを走らせるメソッドが自分の中でいまだ確立していない。
MWのほうは逆にどんどんやりやすくなっている。頭の中のアイデアや、3人で合わせたらこうなるだろう、みたいな想像に、実際のテクニック(広い意味での)が追いついてきている実感がある。また、今までの自分内メソッドが正しかったことがはっきりしてきつつあり、同時に拡張されてもいるので、それをそのまま延長線上に発展させてもいいしそれを壊してもいいという、どちらでもよい状況にある。
MWにおいてはギターのメソッドが確立している。しっかりしているから、無視することも沿うことも、別の全然違う新しいやり方をつくることもできるのだ。
完成こそが未完成の母であるのだ。
だがしかし打ちこみ。いろんな意味で、とにかく難しい。
先ごろ亡くなったZARDのアルバムでも聴いて研究するか。…いやもう、ギターを根本的に解体しなくてはならないような気もする。ポピュラー音楽の一形態であるロックにおけるギターを誤解している気がする。…はじめから解体された状態でギターを扱うアーティストも、ありえないハイテクニックでギターを弾くようなアーティストも…俺はどちらのセンスも理解しがたい。土人が祭りの日につける仮面のようにも、ハッカーの愛機のようにも、ギターを扱えない。…ギターは恋人です?親友です?…板前さんでいうと包丁にあたる存在です?大工さんのカナヅチにあたります?営業マンの笑顔にあたります?ヘンリー・ダーガーにおける女の子の立場であります?エセパンクスはドクロマークを使って呼吸している?ウニでいうとトゲの部分です?っていうか……。
何が言いたいのか?ギターに使役されたくないってことなのか?それもなんとなくちがう。ギターと人間の関係が幸福なアーティストから感じられるあの感じ…それはもはや表向き何やってるかって話じゃなくて、だからセンスがどうとかって話でもなくて、つまりは今のところ、全然説明できない。
…やはりニューヨークで観たマーク・リーボーは、あらゆる意味でものすごかったのだと改めて思う。水木しげるがCGも使いこなせるというか…ギターピカソというか…いやいやいやいや違うぜ…水木しげるが作る料理はメチャクチャうまい!とか、ピカソは金持ちだった、とか、ここは地球だったんだ!とか…むしろそういうような…やはり説明不可。何なんだろうか。

RPGツクール2000という、パソコン上で自分でRPGを作れるゲーム(もはやプログラム?)というのがあり、先日少年Tに貸してもらった。
これがあまりに面白いのでやばい。忙しくなかったら一日中これをやってしまいそう。ゲーム内BGMをwaveファイルやmp3とかで自分で用意できるため、期せずして家にあるちゃんと聴いていないCDをたくさん聴いた。
オウテカのひんやりとした質感にいまさらながらビビッたりした。でも、もうそんなには聴くまい。


半村良「となりの宇宙人」
半村良「わがふるさとは黄泉の国 半村良短編集2」
有栖川有栖「絶叫城殺人事件」
蘇部健一「六とん3」
伊島りすと「ジュリエット」
アガサ・クリスティー「雲をつかむ死」
アガサ・クリスティー「親指のうずき」
アガサ・クリスティー「黄色いアイリス」
栗本薫「新・天狼星ヴァンパイア」上下
栗本薫「グイン・サーガ 1 豹頭の仮面」
栗本薫「グイン・サーガ 2 荒野の戦士」
栗本薫「グイン・サーガ 3 ノスフェラスの戦い」

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